賀茂神社かもじんじゃ 上賀茂神社の鳥居の写真

上賀茂神社の鳥居
 賀茂神社とは、京都市の鴨川沿いに3kmほどはなれてある賀茂別雷(わけいかずち)神社と賀茂御祖(みおや)神社の総称。前者はカモワケイカズチノミコト(賀茂別雷命)を祭神とし、川上にあるので
上賀茂神社(略して上社)ともいう。後者はカモタケツノミノミコト(賀茂建角身命)とタマヨリヒメノミコト(玉依姫命)を祭神とし、下鴨神社(略して下社)ともいう。

 カモワケイカズチノミコトは、タマヨリヒメノミコトが鴨川にながれてきた尼塗矢(にぬりや)をひろったことで身ごもり、生まれたという。ワケイカズチ(別雷)とは若い雷という意味で、今でも別雷神社でおこなわれる御阿礼(みあれ)神事にうかがわれるように、祭りごとに新しく誕生、来臨する神へ水の恵みをもたらすようにいのったことが始まりと考えられる。

 一方、カモタケツノミノミコトは賀茂県主の祖とされ、神武天皇の東征(日本神話)で先導をつとめたのち、鴨川上流の山麓(さんろく)にすみ、イカコヤヒメ(伊賀古夜日売)にタマヨリヒメとタマヨリヒコ(玉依日子)を生ませたという。

 最近の研究では、この地域を支配していた豪族である賀茂県主がタマヨリヒメを産土神としてまつった別雷神社が先にあり、奈良中期、国家の宗教政策の中で御祖神社が分離したことや、男系の系譜意識が発展したことなどが重なって、父であるタケツノミの説話がくわえられたものと考えられている。

 
雪の上賀茂神社の写真
雪の上賀茂神社
葵祭(あおいまつり) 葵祭りの写真2
葵祭りの写真1

現在の葵祭り
 賀茂祭の起源は古いが、平安時代から毎年4月の中の酉(とり)の日におこなわれる朝廷主催の行事となる。820年には、神社の祭りとしては最高の中祀(ちゅうし)という格付けがあたえられた。この祭りでは葵の葉を勅使以下祭儀に参加する者が衣冠につけたことから、葵祭ともよばれた。賀茂神社は「延喜式」では明神大社とされ、祈年穀奉幣など特別な祈願をする対象として二十二社のひとつにもくわえられた。また、山城国の一宮ともなる。それとともに貴族や庶民の参詣(さんけい)も盛んになっていった。また、石清水八幡宮の祭りを南祭というのに対して、北祭ともよばれた。  

 祭りの日、勅使一行は内裏からまず御祖神社にむかい、そこでの祭礼をすませたのち、別雷神社にいって同じ祭礼をする。それがおわると盛大な宴がもよおされた。摂関期からは、その前日の中の申(さる)の日(国祭日)に摂政や関白の参詣もあり、両日ともに大勢の見物人でにぎわった。このように京都でもっとも盛大な祭りだったので、たんに祭りといえば、賀茂祭を味した。

 889年(寛平元)には、宇多天皇(うだてんのう)によって、天皇のための祭りとして賀茂臨時祭が創始され、毎年11月の下の酉の日の行事として定着した。天皇が両社に参詣する賀茂行幸も、朱雀(すざく)天皇が939年(天慶2)に承平・天慶の乱の平定を祈願して以来、代々の天皇によって継承された。これらが他の神社に先立ってはじめられたところからも、賀茂神社への崇敬の篤(あつ)さをうかがうことができる。

 これら賀茂神社の祭りは、応仁の乱(1467〜44)後に中断したが、江戸時代になって賀茂祭が1694年(元禄7)に再興された。現在では、賀茂祭が葵祭として5月15日に挙行されている。