京都市東山区にある寺。山号は音羽山(おとわさん)。中世に奈良の興福寺と密接な
関係をもち、長く興福寺の末寺だったが、第2次世界大戦後に独立して北法相宗の本山
となった。本尊は十一面観音像。清水寺縁起によれば、大和の僧、延鎮が夢告により
観音を念じる行者とであい、彼の示唆で清水滝のこの地に観音堂をたて、坂上田村麻呂
の援助で草創したという。
798年(延暦17)には金色の十一面観世音菩薩(ぼさつ)像を安置し、805年に田村
麻呂が桓武天皇から寺地をあたえられ、勅願寺になったとつたえる。以来、朝廷や幕府
の保護を受けて隆盛した。
北観音寺ともよばれたが、これは中世に観音信仰が強まる中で、西国三十三カ所観音
霊場の第16番札所として定着したためである。それとともに、本尊の霊験譚(たん)が
さまざまなかたちで世におくりだされ、日本無双の観音霊場とうたわれた。そのため、
僧の教学の場所としてよりも庶民信仰の地となり、多くの参詣(さんけい)者や参籠
(さんろう)者をあつめた。
景勝地でもあり、奥の院の音羽の滝の清水が万病にきく名水といわれたほか、参詣
通路周辺はサクラと紅葉の名所でもあり、多くの人々をあつめた。門前町は平安時代
からはじまったともいわれ、のち焼餅(やきもち)と団子が名物となった。清水坂から
八坂までの坂道は産寧(さんねい)坂とよばれ、江戸時代からの旧観を現在ものこして、
町並み保存地区に指定されている。
一方で、中世にははじめ興福寺、やがて延暦寺と関係を深めた祇園社(八坂神社)と、
庶民信仰の地位などをめぐって対立している。両者の対立は興福寺と延暦寺の争いに
発展し、それぞれに僧兵をだして合戦し、焼き打ちにもあった。その後も震災や火災に
あい、現在の伽藍(がらん)はおもに江戸時代につくられたものである。
1633年(寛永10)建立の本堂(国宝)は清水の舞台として知られ、本尊への願かけ
結願の日に、ここから崖(がけ)下へ身を投げて無事ならば諸願成就という俗信から、
「清水の舞台から飛びおりる」という語を生んだ。崖に懸造(かけづくり)した舞台は、
創建時と同じ造りである。このほか、伽藍15棟と、本堂外陣に奉納された絵馬のうち、
朱印船貿易をおこなった末吉船と角倉(すみのくら)船をえがいたものなどが重要文化財
となっている。 |